エコビータ創業物語
エコ・ビータという会社をご理解いただくために、小さな歴史をまとめました。
「住まいづくり」において一番大切なことは、「お客様」と「作り手」側との相互理解であると考えています。
私たちの「想い」や「判断基準」など、日々の活動の原点がここに詰まっています。
第一部 親元から通う学生時代
私は、1953年に京都府舞鶴市に婦人物洋装店を経営する夫婦の次男として生を受けました。長兄は、私が生まれる前、小さな時に病気で亡くなっていますので、待ちに待った「男の子」として、とてもかわいがられて育ちました。
小学生の時は、野球少年でランドセルを置いたら一目散でグランドへ行き、夕方まで泥んこになって遊んでいました。学校の成績は5段階評価で「オール3」でしたが、植木等のスーダラ節は天下一品で、クラスの人気者でした。
小さな頃から、商店街のゴミゴミした暗いところに住んでいましたので、大きくなったら広い庭の燦燦と日の当るところに住みたいという気持ちでいつもいました。
この頃の環境が、住まいはどんな悪い敷地の条件でも、工夫して明るくしたい!という姿勢が培われたのではないかと思います。
第二部 親元から離れて過ごす学生時代
高をくくって早稲田大学と東工大の建築科を受験しましたが、見事不合格!初めての挫折を味わいましたが、本人は意外とサバサバして、これから始まる親元を離れた魅惑的な都会での生活に、胸ときめかせていました。
初めての都会での生活は、大都会東京の中野のボロアパートで始まりましたが、郷里で思ったほど、都会の生活は楽しいものでなく、東京の生活ともなじめず6ヶ月で京都に帰り、京都で残りの浪人生活を過ごしました。
二度目の受験は関西と心に決め、立命館大の土木学科と神戸大の建築学科を受験しました。立命館大の合格通知を受け取った時には、「もうこれで浪人生活とはお別れだ~」と思ったものです。その後、偶然にも神戸大建築学科に合格し、建築科の卵の道を歩み始めました。
4年生の時、一年目は「日本建築史」の講座に所属し民家調査や発掘に明け暮れていました。フィールドワークが多く単位取得が難しかったので、二年目には「西洋建築史」の講座に所属し、コルビジェやフランク・F・ライトの建築を学びました。
私の建築デザインに対する考え方のベースは、この2年間で形作られたと思っています。ということで1年留年して、なんとか卒業させていただきました。私にとっては楽しい学生時代でしたが、親にとっては仕送りなど苦しい時代だったでしょうね。
第三部 社会人としてのスタート
1年浪人、1年留年と一般の大学生よりも2年遅いスタートとなりました。大学時代、映画でみた映画「タワーリングインフェルノ」の影響で建築家を目指そうと心に決めました。(映画でみた消防士役のスティーブ・マックイーンと建築士役のポール・ニューマンを比べ建築士役のほうがカッコよくみえた)
跡継ぎでもあり学生時代に婚約した今のかみさんが一人娘で舞鶴出身なので、将来親の面倒もみることもあろうかと、地元の建築設計事務所に就職しました。
大きな建物の建築を目指して大学に入ったのですが、田舎に帰るなら、「医者も大学病院の先生が必要なように、町医者も必要だ!」と町の建築家になろうと心に決めかえって参りました。
就職した会社は、所員数名の小さな会社で、一から色々なことを教えていただきました。その時、短大を出て私より先に勤めていたのが、現在の良きパートナーである「櫻井取締役」でした。
高度成長期で仕事も多く、入社当初から夜ご飯はいつも会社。一日14時間がむしゃらに働きましたので、思いのほか仕事を覚えるのは早かったと思います。
学ベば学ぶほど、もっと大学の時に学んでおくんだった、大学院に行って再度勉強を、と甘い考えもよぎりました。しかし時既に遅し、長女が生まれ25歳でお父さんになり、大学院もあきらめました。しかし、勉強はどんな環境でもできると思い、毎晩帰りが遅くとも子供の寝顔をみながら頑張り、28歳で一級建築士に合格することができました。
第四部 独立
1984年、30歳で独立。専業の建築設計事務所「下野建築事務所」を開設。専業の設計事務所ですから、勿論工事請負はしません。お客様より建築設計監理の業務を委託し、設計の段階では、お客様の要望とプロとしての提案を融合させ設計図を作成します。その設計図に基づき、数社の建築業者に見積をしていただき一社を決定します。
その後、工事の段階では、専門家としてお客様に代わって適切に施工されているか?などをチェックや指導をします。最初の作品は、菓子問屋の株式会社田中製菓さんの店舗社屋と自宅の工事でした。鉄骨3階建て、総工事費2億で、当時ではかなり大きな仕事を独立したての若造に任せていただきました。この仕事がなかったら現在の自分もなかった、と感謝の念が絶えません。
その後、株式会社下野建築事務所に改組、店舗付住宅や医院など民間を中心に鉄骨造や鉄筋コンクリートの中高層建物の設計を20年間続けました。本来は「住宅作家」としてアトリエ的な仕事をしたかったのですが、当時一般的な住宅において、住宅設計の仕事を設計事務所に依頼される方は皆無でした。
商店街の狭い・暗い敷地の設計依頼を受けることが多かったのですが、街中だからといってあきらめるのではなく、中庭(坪庭)などを設けた設計手法により、街中でも明るく・風通しの良い住まいづくりを目指して設計しました。
第五部 新会社設立
建築と土木、そして情報技術(IT)を融合した新たな技術の創造を目指し、IBM出身のSEを含めた技術者5名で、1997年(平成9年)に株式会社京都イングスを立ち上げました。
私の役割は、専務取締役としての経営に関する仕事の他、建築の設計監理は勿論のこと、まちづくりや公園・遊歩道などCG景観設計の総括でした。個々の建築だけでなく、景観としての建築や住民参加型の建築設計など学びました。
この頃から、建築を「まち」の構成要素の一つとして捕らえるようになっていきました。自己主張の強い建築ではなく、まちの景観になじんだ、かといって陳腐でない建物を目指すようになりました。
第六部 創業そして、私の生き方
「エコロジカルな生活スタイルを提供し、真の意味でのお客様の幸せを提供していきたい!」という想いをこめて、エコロジーの【eco(エコ)】とイタリア語で生活・生命・元気を表す【vita(ビータ)】を組み合わせ、【エコ・ビータ】という社名にしました。
創業当時の1997年は、14歳の少年による酒鬼薔薇事件など凶悪事件が多発、大型企業の倒産や北海道拓殖銀行など銀行の破綻が相次いだ暗い世相の時代でした。私も50歳を過ぎ、残りの人生「建築家」として「ひとりの人間」として如何に生きるべきかと考えていました。
精一杯頑張って設計した建物を、建築業者がダンピング合戦の中で獲得し、現場では職人さんが「こんな安い仕事、やってらんね~」なんて愚痴を言いながら仕事をし、勿論出来上がったものも納得がいくものでもなく、手直ししても決して満足できるものでなく、施工者も、職人も、設計者も、勿論お客様も、誰もが「得」のない世界をその当時作り上げていました。
また、弁護士さんと共にボランティアで行なっていた「欠陥住宅相談」も、悪徳リフォーム業者が後を立たず、事後処理ばかりに明け暮れていました。
将来を担う子供たちが成長するために一番長い時間を過ごす「家」。狭いながらも楽しいはずの「我が家」が、崩壊寸前であるように思えてならなかったのです。
その時、どこからか「声」が聞こえてきました。
「お前は建築家として何がしたかったのか?」
「お前は何故舞鶴に帰ってきたのか?」
私は、狭小な「街なか」の家に育ち、明るい気持ちの良い家をつくるんだと心に思い建築を目指し、そして町医者としての建築家を志したはずだったんです。
一番大切な「住まい」が病んでいる今、私がやるべきことが明確になった瞬間でした。
私がやるべきこと。
「残りの人生をかける仕事」=「明るい豊かな暮らしづくり」だったのです。
建設業の枠を超えた、単なる「住まいづくり」にとどまらない「暮らしづくり」。
「つくる」「みたす」「まもる」の3つのサービスを提供し、家族の幸せな「暮らしづくり」を創造するという理念。単なる住まいという「器」をつくるのではなく、楽しくする潤いで満たし、安心を守り続ける、そんな仕事だったのです。
第七部 現在
どうして私は自分の生い立ちから現在までを知ってほしかったのでしょうか?
満足のいく「暮らしづくり」に大切なことは、良き暮らしづくりのパートナーを見つけることも重要だと考え、まず「自分」「自社」を知っていただこうと思ったからなのです。
あなたの『理想とする暮らし』は何でしょうか?
私たちの暮らしはとても豊かなはずなのに、心まで豊かといえるのでしょうか?
20世紀は、右肩上がりの成長と物質的な豊かさを追い求めてきました。しかし、その結果は必ずしも人々の心を満たすものではありませんでした。多くの人々が「もののあふれる私たちの暮らしは本当に豊かなのだろうか」と疑問をもち、「ものの豊かさから心の豊かさ」へ転換が求められるようになっています。
今こそ、将来を見据えて「暮らしのグランドデザイン」を描き、ひとりひとりが自信を持ち、子どもたちが輝く暮らしを始めることが必要とされています。そして、みんなそれぞれなりに生活を楽しみ、そこに暮らす人たちの生活の「質の豊かさ」を高めることが大切だと考えます。
家族の数だけ「幸せ」の形があるように、暮らしの「形」も家族の数だけあります。 自分は自分であって、自分しか出来ない生き方があるはずだと信じる勇気と現在の価値基準を少し変えるだけで、本物の豊かさを実感できると思います。誰でもすぐできる事なのです。本当の暮らしの豊かさが何か、少し解ってきたような気がしませんか?
現在、私たちの暮らしは、いかに早く、いかに安くつくって、いかに多く売るかという作り手側の思惑によってつくられた世界の中に埋没し、自分たちの暮らしをそれに合わせた生活をしています。暮らしは本来、画一的ではなく自分たちの生活スタイル・家族構成の変化・年齢などに合わせていくことが理想です。
信頼感と真心で、住まいや暮らしにまつわる情報を提供し、 一人一人の生活スタイルや暮らしへのこだわりにお応えしサポートする、そんな仕事がしたいと思っています。
あなたの人生とともに、生涯に渡る「暮らしのパートナー」になりたいと願っています。
株式会社エコ・ビータ
代表取締役
一級建築士
下野 邦夫